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シルクロードとは?

19世紀にドイツの地理学者リヒトホーフェンが中国で土地と物産を調査し、成果を『シナ China』という著書にまとめました。 その中ではるかむかし中国からローマに特産の絹が伝わっていたことから「絹の道」という言葉が用いられました。 そして弟子のヘディンがその言葉を取り上げ、著書の中央アジア旅行記の書名の一つに「シルクロード」名づけたのが始まりです。
現在では「シルクロード」という言葉はロマンのあるキャッチフレーズとしてあらゆる分野で使われていますが、実際にキャラバン交易が盛んだった時代にそのように呼ばれた道は存在せず、単純に東西をつなぐ多数の交易路が存在しただけです。
シルクロードとははじめは東トルキスタン(現在の新疆ウイグル自治区)を東西に走る交易路を意味していましたが、現在では中国から地中海東部沿岸に達する東西貿易航路の全体を指すようになりました。 この中国の西域を横断する交通路には、天山山脈の北側を通る天山北路とその南側を通る天山南路の二つがあり、さらに天山南路はタクラマカン砂漠の北側を沿って西に向かう北道とこの砂漠 の南側を通る西域南道に分かれ、カシュガルで合流しパミール高原の地峡を経由して西トルキスタンに入っていきます。カシュガルから西方へ向かってさらに2本に分岐し、北西路はファルガナ(現在のウズベキスタン東部)を通りアラル海、南ロシアまで通じていました。 これに対し南西路は、クシャン(現在のパキスタンからインド北部あたり)、パルティア(イラン)、シリア、ビザンティウム(トルコ)と、他方ではバクトリアを経由してインドに達していた。
このようにシルクロードには3つのルートがありますが、名前の通り絹を主な商品とする貿易路として主に使われたのは天山南路です。環境的には砂漠が広がる天山南路より緑が広がる天山北路のほうが優れて いましたが、北には強力な軍事力を持つ遊牧民が存在したため天山北路を使えなかったと考えられます。

東トルキスタン

シルクロードの発展 漢王朝と西域

シルクロードの発展は中国の漢王朝の武帝の時代(前141年-前87年)に遡ります。これより以前の秦の時代から中国の北方の領土はたびたびモンゴルの遊牧国家の匈奴からの侵略を受けていました。 秦の始皇帝は匈奴を北方に駆逐して万里の長城を作り匈奴の南下を防ぎました。漢の時代に入ったころの匈奴と漢の戦いは匈奴の全面勝利で終わり、できたばかりの漢は以後匈奴定刻の属国となってしまいます。 しかし、7代目の武帝のとき漢は再度匈奴との戦争を始めます。
このころ東トルキスタン(今のウイグル自治区)には月氏という遊牧国家がありました。月氏は匈奴が力をつける以前からこの地に存在していましたが、匈奴が力をつけてくると当然月氏と対立し この二つの巨大な遊牧国家は覇権を争うことになりました。結果月氏は敗れて一部はチベットに残り小月氏と呼ばれるようになり、大部分は西トルキスタンに移動し大月氏と呼ばれるようになりました。
漢の武帝は大月氏と同盟を結び匈奴を挟撃しようと考え使者を募り、これに答えたのが張騫です。張騫は従者100人ほどを引き連れて長城を出て西域へ向かいましたが、まもなく匈奴に捕縛されてしまいます。 彼は10年ほど匈奴に捉えられたままでしたが、隙を見て脱出し大苑にたどり着きます。大苑はオアシス国家で漢王朝と関係を持ちたいと思っていたのでこれを助け大月氏まで送り届けます。 しかし大月氏は国内が安定していたし、漢王朝が遠方であったため、毛局はこの要求を受けいれず張騫は使命を果たせぬまま13年後に漢王朝に帰ってくることになります。
しかし、張騫がもたらした西域の知識と情報に武帝は喜び、西域の開拓に乗り出しました。交通路を確保し酒泉から玉門関までところどころに砦を築きました。その結果イランなど遠くの西南アジアと の直接交渉がひらかれるようになり、西南アジアの物が中国に入ってくるようになりました。



匈奴帝国の崩壊

遊牧国家は定住国家の国々において常に脅威となっていました。これは東トルキスタン、西トルキスタンの定住国家でも同じで常に北方の遊牧民族に脅威を感じていました。 中央アジアの乾燥地帯は騎馬兵力にとって大きな機動力を与え武力的有利になっていました。
漢と匈奴の戦いでも兵数で圧倒的に勝る漢軍が少数だが機動力のある匈奴の騎馬部隊に苦しめられていました。漢軍の主力は歩兵で騎兵は補助的でしかなくその馬の数や性能も 匈奴より劣っていました。
そういう理由から武帝が西域で何よりもほしがった物が馬でした。武帝は大苑に名馬を求め使者を送りましたが、大苑はその要求を拒否し、それに怒った武帝は李広利に数万の兵を引き入らせ大苑の馬を取ってくるように命令しました。 しかし敦煌を出た漢軍は水草と食料の欠乏で多くの兵を失い、大苑にたどり着くことなく敦煌に引き返しました。 この惨敗で周囲の国々の評価を下げ、このような西域政策の危機に直面して武帝は再度未曾有の大部隊を編成し大苑に進行しついに攻め落とし 馬を得ることができました。
また、武帝は特に匈奴の属領であるタリム盆地のオアシス国家を攻め込み、これにより匈奴は安定した財源物資を欠くことになり次第に力を弱めていきます。 しかし戦争は50年にもわたる長期化をみせ、お互いの国家は疲弊していきます。そのため武帝の死後、昭帝に変わると漢はすぐに匈奴と講和し、50年前とは違い今度は両国対等の立場になり、 南北の2大帝国が平和共存する時代になっていきました。
その後、王莽の時代に再び漢は匈奴に戦争を仕掛けるが失敗に終わり、後漢の時代になると関係は再び落ち着きます。 しかし互いの国家はその平和共存の間に内部より崩壊していくことになります。
匈奴はその後東西に分裂し、西匈奴は漢と東匈奴の連合軍によって滅びました。しかしその後、東匈奴はさらに北匈奴と南匈奴に分かれ、 南匈奴は漢の一部になり連合軍が疲弊した北匈奴をやぶります。 その結果、北匈奴は西へ西へと移動していき東ユーラシアの歴史から姿を消します。 南匈奴も頼った後漢が黄巾の乱で崩壊し、再び三国時代の動乱に巻き込まれることになります。

三蔵法師

西遊記で有名な玄奘三蔵(602-664)は唐代の人で13歳時に出家して洛陽の浄土寺で修行しました。玄奘三蔵は漢訳仏典には疑問が多いため、インドでの原典研究を志し旅に出ました。 629年国禁を犯して単身で玉門関を出て天山北路により、トルファン、クチャ、アクス、を通ってジュンガル地峡からイシック湖の南岸を経て、タシュケント、サマルカンドを歴訪し、 アム川を渡りヒンズークシ山脈に入りカーブルを経てガンダーラ・カシミールを経てナーランダーにいたった。ナーランダーは仏教の中心地で玄奘三蔵はここで5年を研究に費やして、 帰路はカシュガル、ホータン、ニヤなど西域南道を通り645年長安に帰着しました。帰国の翌年弟子の弁機に命じて作らせたのが「大唐西遊記」です。