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トルキスタン

中央アジア

  中央アジアとは現在の国で言うなら中国の新疆ウイグル自治区とカザフスタン、ウズベキスタン、キルギス、タジキスタン、トルクメニスタン、アフガニスタン をさします。内陸アジアのこの部分は古くからトルキスタン、すなわちトルコ人の国という名称で呼ばれ、中国領すなわち新疆ウイグル自治区は東トルキスタン、 旧ソ連領は西トルキスタンとして知られています。



自然環境

トルキスタン 地図

中央アジアは世界で海洋から最も離れた地域であり、降水量は極めて少ない乾燥地帯です。ユーラシアの風景をおおまかにいうとは北から森林、森林草原、草原(ステップ)、半砂漠、砂漠といった感じで中央アジアの範囲で言うと、 北に草原地帯、中央と南は砂漠地帯といった感じです。 そのような気候地域の中央に世界の屋根と呼ばれる巨大な山脈が横たわっています。アフガニスタンのヒンズークシ山脈から続くパミール高原と天山山脈が南西から北東にのび、 このような平均5000m級の山々がこの地域を東西に分断するような壁になっています。その昔この東トルキスタンと西トルキスタンの間に横たわるパミール高原のために相互間の交通は阻害されていましたが、 この高原の北部にはバルハシ湖の南を経てジュンガル盆地に達する地峡が走り、この交通路によって二つのトルキスタンはかろうじてつながっていました。 自然的には東も西も同じような条件で、東トルキスタンの中央にはタクラマカン砂漠、西トルキスタンにはキジルクム砂漠とカクラム砂漠という不毛の大地が横たわっています。 山脈から流れ出る河はことごとく海洋に出口のない内河ですが、高原と砂漠の中間には草原が広がり、河流に沿う地域にはオアシスがあります。 人の暮らしもその環境に沿って狩猟、牧畜、遊牧、農耕、商工業に分かれていきます。



遊牧社会と農耕社会


中央アジアで人類の活動が始まると2つの社会が出来ました。それは遊牧社会と農耕定住社会です。 遊牧社会とは文字通り遊牧民の社会です。降水量が少なく草がまばらな中央アジアの草原を家畜と移動しながら暮らしていた民族です。 次に農耕社会とは河の側やオアシスの周りに定住し、農耕を行い暮らしていた人たちです。
この二つの社会は別の社会でありながら、基本的にはお互いの必要物資(遊牧民は穀物、農耕民は乳製品や毛皮)の交換を行い共存。共生を行っていました。 時が経ち、農耕社会にカレーズやカナートといった地下水路が導入され、水源のある土地では人工オアシスが形成され次々にオアシス都市が誕生していきました。 そして紀元前1000年前後には鉄器の普及が始まり、農耕社会の生産力は非常によくなり経済が発展していきました。鉄器は遊牧社会の牧畜にはほぼ無関係でしたが、騎馬道具の発達と鉄製武器の使用 によって軍事力を高めました。そうなると遊牧民は経済の発展した農耕社会へ侵略行動を始めました。 騎馬兵の威力は歩兵を圧倒的に上回り、一族全部が優秀な騎馬兵と化す遊牧民の軍事力は圧倒的で、重火器が登場する以前の紀元前800年ー18世紀ごろまでは遊牧騎馬軍団の時代でした。
定住社会にとって強力な軍事力を持つ遊牧民族は脅威で、このような変化に対応して農耕社会は、以前の孤立、独立した集落の関係から、集落の集合体を形成したり、 オアシスを中心とする都市国家の形態をとりはじめ、さらに付近の農耕集落を支配下におさめ、軍事力を常備した国家が成立して行きました。 しかしオアシス国家の成立は同時に遊牧民の団結を促し、その後の両勢力の対立、抗争の歴史につながっていきます。
とはいえ定住国家と遊牧国家の抗争は頻繁におこったわけではなく、長い歴史の中で数回あっただけで、一般的にこの二つの社会は共存・共生を行っていました。 定住社会では狭い農地内では家畜を飼えないため畜産品の毛・皮・油脂・乳製品などは遊牧民との交換によって手に入れなければならなし、またそれらを加工して製品とし、他のオアシス 都市に売りに行く場合、キャラバン(隊商)を組織しなければならないが、必要になる馬やロバ、ラクダまたその飼料は遊牧民から購入しなければならない。さらに交易路の安全の保証もされないといけない。 そしてこのためには遊牧民との協力が必須になります。
遊牧社会にとっては定住社会のオアシス国家の協力をさらに必要とします。彼らにも畜産物だけでなくかなりの量の穀類が必要で、とくに移動中の植物性食料はオアシスからの供給をあおぐ 必要があるし、織物、金属品、木製品、その他の加工品はオアシス社会との交易に依存していからです。
遊牧民が孤立したオアシス都市を行き来することで各地のオアシスがつながる。 このように遊牧民はオアシス間の潤滑油のような役割を果たしていました。。